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日々の破片

著作一覧

2025-02-01

_ 映画を愛する君へ

あまりに妙なタイトルで驚いたが、spectateursで映画を観る人たち(を、極端に意訳すれば映画を愛する君へ、なのだろう)だった、デプレシャンを観に行く。

ポールという作家の分身を用意して祖母に連れて行かれたファントマ(姉が怖がって途中退場するのだが、子供をモンスターズインクに連れて行ったら警察のサイレンを怖がって途中退場する羽目に陥ったのを思い出した)、テレビで見るヒッチコック、高校の映画部で16mm上映するひなぎく、多分大学に入ってからのコッポラ(これは引用なし)、その後のショア(数人しか客がいなくて、キリスト教徒の自分は他の客、老人たちだが、はユダヤ教徒なのだろうと思う。観ていると、一人の老人が「そういうことだったのか!」とところどころで叫ぶのを耳にする。9時間後にショックに襲われた、と語る。その1週間後か1か月後には映画館の前に行列ができるようになっていた。ショアについては観てから25年後に当時、自分を納得させた論評をした学者をインタビューするということで多分作家本人が出て来る)、そして同時代の若者がマチューと顔を見合わせて大人はわかってくれないを見る。その若者が語る。フランス映画とかださくて観る気はしなかった。大人になって見直して理解した。中央にエッフェル塔が見える。ずっと移動する。エッフェル塔が建物の背後に隠れる。映画だ。ある程度年齢がいってから自国の映画を観て映画を理解するというのは気分的にわかる。三隅研次や森一生、舛田利雄、岡本喜八といった日本の作家の映画を観たのは大学生になってからだ。

コッポラのパートではデート(高校時代の恋愛関係を持った女性ではなく、その連れの女性と)でスタイルカウンシルのmy ever changing moodsが流れる。あの頃エッフェル塔の下でのスペシャルズのI can't stand itといい、選曲が実に良い。それを離れたところからカフェの窓越しに雨に濡れて以前の女性が見つめる。

というパートと、エジソン、リュミエール兄弟、雪を撮影できるようになりアベルガンスと恐るべき子供たちと、映画史を大急ぎでたどる。

途中、どこかの大学の先生の授業が挟まる。

この授業は抜群におもしろかった。

映画は民主主義の発展と足並みをそろえる。

最初はギリシャのテアートルだ。演劇は個々の観客は個々の視点で舞台を観る(寺山修司の百年の孤独を思い起こす)。直接民主主義。

そしてスペクタクルが生まれて、監督の視点でみんなが観るようになる。代表制民主主義。

学生が質問する。それでもスペクタクルは劇場に集まる。今はみんなが自分のテレビ、スマホ、個々のデバイスで勝手に観る。これはどうなのか?

それは、既にスペクタクルではない。あえて言えばメディアである。

なるほど、新自由主義による分断の時代だ。20世紀がスペクタクルの時代で21世紀はメディア(マクルーハンとは異なる視点からのメディア論だ)の時代という認識はおもしろい。

ラスト、クレジットに合わせてルビーズアームズが流れる。

当然のようにプレノンカルメンのルビーズアームズのシーンを思い起こす。かっこつけんなバカとホセはカルメンに頭をはたかれる。デプレシャンとしてはそういう気持ちなのだろう。

題名があまりにも妙なので、結構危惧したが、実におもしろかった。


2025-01-13

_ 妖説忠臣蔵

山田風太郎の『妖説忠臣蔵』読了。

遥か昔に買ったまま放置していたわけだが、八犬伝を見て思い出したので本棚の深淵から引きずり出して読んだ。

一読、なぜ放置していたかも思い出した。

昭和30年代の山田風太郎の小説は下手くそなのだ。アイディア走って筆走らず、説明へたでリズムも悪い。というわけで捨て置いたのであった。

が、そこを無視して読み進めれば一読三嘆、既にこの頃から虚実のボーダーを突き進む孤高の人の姿あり。

結局、プログラミングでもなんでもそうだが、量は力なのだ。昭和30年代後半から忍法帖が時流に乗って書き飛ばし書きまくった量のおかげで、明治伝奇から室町婆娑羅の見事な文章へと転化したのだろう。

それはさておき、文章は下手でも小説としては実におもしろい。

吉良家一の剣術使いの清水一学に三平とお軽の姉を配して東海道の追いかけっこを描く『赤穂飛脚』(いささか長過ぎるというか、文章が下手で冗長なので長く感じる)。が、清水一学の漢っぷりが実に気持ち良いし、配するお軽の姉、海燕のお銀の伝法っぷりも実に良い作品。

続く『殺人蔵』ではうって変わって陰惨きわまりない大石内蔵助のサイコパスっぷりを、若き遠山金四郎の目を通して描き出す。これは傑作だが、ただ、上を見ろ上を、と声をかけたくなる。

そして恐るべき『蟲臣蔵』。不義士田中貞四郎(実に山田風太郎好みのキャラクターである)が、大石内蔵助のサイコパスっぷりに当てられて梅毒地獄に落ちていく。

あまりの義士たちの困窮っぷりに怒った田中貞四郎は、京の都で遊興の限りを尽くす大石内蔵助に直談判に乗り込む。そこでへらへらと義士討ち入りのプロモーション戦略を延々と聞かされた挙句に、「お前、金が足りないのか? ほらこれでどうだ」と小判をじゃらじゃら渡されて張り詰めた糸が切れてしまった上に、江戸へ戻ると許嫁は吉原へ身売りした結果が太夫に上り詰めてそれなりの高い位置にいるのを見てしまう。かくして不義士田中貞四郎が誕生する。

が、最後まで山田風太郎は容赦がない。田中貞四郎にとどめのように義士の快挙を目撃させる。

続く『俺も四十七士』では47士の名簿にはいるが、誰も語ることがない貝賀弥左衛門を取り上げて、女傑女房のひとあばれをからめて(ここも見せ場は女房のほうだ)、最後まで無視された存在として腹を切らせてしまう(というか、切るのは当然なのだが)。

最後に『生きている上野介』で、討ち入りに加わらなかった元赤穂藩士の後日談。実に嫌味きわまりなく、これまた山田風太郎節でおもしろい。

7作品収録の出版社版と、本人選択の5作品版があって、読んだのは5作品版のほう。

山田風太郎はすごいのだ。

妖説忠臣蔵 (集英社文庫)(山田 風太郎)


2025-01-03

_ 巳年の白蛇伝

本邦最初の総天然色長編マンガ映画と銘打っている『白蛇伝』を観た。確か父親が母親と見に行ったというようなことを聞かされた覚えがあるから生まれる前の作品でこれが初見。

予告編と東映社長(当時、株主向けとしか思えない国際的競争力の話をする)の挨拶の後に本編が始まるが最初は影絵調ののんびりした昔話だが我慢しているとアニメ(当時は「マンガ映画」と社長が呼んでいて、でもスタジオにはAnimationとあって妙な外来語よりもカタカナ使っても日本語(マンガは漫画の異表記)を使う筋が気持ち良い)になる。

物語は牡丹燈籠と人魚姫の合成みたいだが落着させ方の捻りがおもしろい。妖精にとっての罰とは。

スタッフのクレジットでは大塚康生が目立って(知っている名前だからかも)、なるほどパンダコパンダっぽいパンダとレッサーパンダが大活躍してかわいい。何しろ、飼い主というか親分というかを探してはるばる蘇州(なぜ蘇州? というとおそらく日本人に馴染み深いからではなかろうか)まで旅する。

パンダの名前がパンダなのはともかくレッサーパンダがやたらと痩せていてほとんどカワウソみたいで(名前もメーメーみたいな妙な名前だ)存在は知っていても見たことないだったのだろう。当時はかんかんらんらん前なので日本人でパンダを観たことがあるのは、よほど深中国へ潜り込んだスパイ(というよりも間諜)くらいしかいないのではないか? と思った。パンダも妙に小さくて可愛い(が、街のちんぴら大将の豚をやっつける凄まじい打たれ強さがあったり)。

驚くのは宮城まり子と森繁久彌が声色変えまくって、たった2人で全部こなしているところだ。なぜか2人とも東宝なので、東映はよほど人材不足なのか、それともマンガ映画とかやってられるかと俳優部門に蹴られたのか謎だ。ちょっと3人で13人分こなすソーイングビーを思った。日本昔ばなしもそうか。

まあまあおもしろかった。


2024-12-30

_ 年末アキカウリスマキ

アマゾンプライムの無料期間が終わるからアキカウリスマキの観たことないやつ見まくろうと妻が言うので、一緒に観まくった。

まずカラマリユニオン(1985)。

カラマリ・ユニオン (字幕版)(アキ・カウリスマキ)

まだ桜ケ丘にユーロスペースがあった頃に大特集があったので、なんとなくそのときに観たような記憶(題名がユニークだし)があったのだが、見始めたら完全に初見だった。

酒場だかレストランだかに男たちが集まって、差別され虐げられている現状を打破するために街の反対側への長く危険な旅に出ようと決める。

街の反対側? というところで、既におかしい。

荒れ果てた道路を男たちが進むが大通りを挟むと唐突にきれいな道になる。

地下鉄の駅に行くと天井が自然洞窟のようになっていておかしい。

どうもアルファビルを観たアキカウリスマキが同じような映画を撮りたくなったのではないか? と思いながら観ていくと、地下鉄を乗っ取ってまともな地下鉄の駅に着く。そのときジャックして縛り付けておいた運転手が縄を解いて出るやいなや運転手をやった男を撃ち殺す。

確かに危険な旅のようだ。

その後の最初の集会でどうやら全員名前がフランクだということがわかる。それにしてもいつものカウリスマキ映画の人々だがペロンパー(ひげが特徴)とペロンパーの親父(ではないが年を取ったペロンパーというかひげが同じ)、無表情ながっちり男(ホテルの前の鞄を盗んでホテルに泊まる)とかがてんでばらばらに街を荒らしながら反対側への決死の脱出行が始まる。一人、二人と殺されたり脱落したりする。大脱走みたいだな。

中米のゲリラ戦を戦ってきた男(フランクとは名乗らなかった、ペッペみたいな名前)の妙な英語ギャグがおもしろい。

驚くべきことに全編映画そのものでおもしろいことこのうえない。ただ、一か所リーダー役(最初に演説をかます)フランクが、本がいっぱいある部屋で回顧録を口述筆記させている(のだか、なんだかわからん)シーンは退屈だった。もしかすると抜群の話術と脚本(台詞)の妙技が披露されているのかも知れないが、それはわからない。

最後、小舟で二人が河を渡ろうとするが発砲音が聞こえる。

続けてハムレット・ゴーズ・ビジネス(1987)

ハムレット・ゴーズ・ビジネス (字幕版)(アキ・カウリスマキ)

完全に初見だが、なんとなく罪と罰のようにまじめな文芸映画を撮ったのかな? とクローディアス(クラウンと称する)による父王の毒殺シーンから始まる。

が、どうも違う。ハムレットが実にナンパ野郎なのだ。でオフィーリアがいつものカティ・オウティネン。二人のシーンで悲愴。

が、部分部分はまごうことなきハムレットなのだった。父王の亡霊とは塀の上(砦の回廊でなければ確かに塀になる道理だ)で会う。

レアチーズがおれのオフィスはトイレの前だから変えてくれ、OKの後のオフィーリアと別れてくれ、お前のオフィスはクローゼットにすると、妙にハムレットが強い。

ホレーショはどうも運転手らしい(シレだかホシだかという名前)。が、その恋人にハムレットはちょっかいを出しまくる。

しかも重役会議を盗聴して、ここぞとばかりにクラウスに打撃を食らわす。

母親との会話中に曲者が衣装箪笥に隠れていることに気付きハムレットが扉越しに撃つとポローニアス。寝室に男を入れるな、それが親父への供養だ、とハムレットは吐き捨てて去る。

と、基本線はシェークスピア通りに順調にレアチーズとオフィーリアの親父を殺す。

オフィーリアは睡眠薬をがばがば飲んでバスタブで溺れ死ぬ。まあ、水に浮かぶ必要はあると思ったのだな。

英国へ逃げようとするハムレットにクラウスの部下が襲い掛かる。が、あっけなく返り討ちにあう。このハムレットは強いのだ。

いったい、レアチーズとハムレット、クローディアス、ガートルドの皆死んでしまうのはどうするのかと思ったら、まずクラウスが仕込んだ毒入り鶏腿をガートルドがつまみ食いして死ぬ。まあ、本家通りと言えなくはないか。

続けてレアチーズが襲い掛かるのをあっという間にテレビ男に変えて始末して(ここは抜群)、射撃が下手なクラウスをあっけなく撃ち殺す。

このあたりのスピード感と間の取り方構図と人物の入れ替え(鶏肉のところとか)はカウリスマキの本領が大発揮で最高だ。

と、シェークスピア通りに脚本は進み、最後、ホレーショが生き残る。

最高だった。

この後は、妻が観ていないというので、まず白い花びら(1999)を再見。

白い花びら (字幕版)(アキ・カウリスマキ)

しかしなんで唐突にこれ作ったのだろう? ドライヤーの回顧展か何かで観まくったカウリスマキが自分もドライヤーみたいに撮ってみようと思ったのかな? とか話し合う。

後で妻が調べて、フィンランドでは金色夜叉のように何度も映画化された国民的メロドラマだと教えてくれた。

斧を取ってから撃たれても(少し心臓を外していることはしっかり描写している)迫って来るおっかなさは記憶の通りだったが、いちいち花を踏み、蝶を踏みにじって殺すようなシュメイッカの性格描写はまったく記憶から消えていた。

ユハが赤ん坊を窓から投げて殺そうとするのを、父親はあんただよとか言われて思いとどまるのは、初めて気づいた。とにかく演出が実に細かい。

で、街のあかり(2006)。

街のあかり (字幕版)(アキ・カウリスマキ)

これもおれは観ているが妻は観ていなかった。

トスカだ。この作品はチャイコフスキーではなくプッチーニなのだな。ラ・ボエームでプッチーニを排したとか言っていたような記憶があるが、そうは言っても聴きまくってしまったのかも知れない。

それにしても、あまりにも頭が悪い主人公過ぎて、負け犬にもほどがあるだろうと思うのだが、それ以上にホットドッグ屋の主人がガールフレンドとのデートだったと嬉しそうな主人公に閉店を告げ、警備会社の裏口で待ち(まさにそのときに泥棒が入る)、手紙を書きまくり、妙にけなげなのが映画っぽい。

一週間水をもらえなかった犬と、なぜかその犬の面倒を見ている少年のことは忘れていた。

最後、手を握り返したように見えたので(初見時は気付かなかったのだろうか)、必ずしも不幸で終わったわけではないのかも知れない。


2024-12-14

_ 新国立劇場の魔笛

2022年4月に引き続きウィリアム・ケントリッジの魔笛

今回の指揮のトマーシュ・ネトピルは序曲から良い感じ。特にフーガに入るところが絶妙で期待が高まる。とはいえ、やはり1幕は退屈だ。

一方、前回と同じく、ザラストログループ(今回は前の新自由主義者の巣窟というよりも、アカデミアっぽく感じたので悪い印象が薄れた)のパートが抜群。

また前回同様に、パパゲーノがいまいち違う感じがして、特にパパパがどうにも盛り上がらない(ここがこの劇で一番好きなシーンなのだが、この演出では、炎と水の試練の入り口のパミーナとタミーノの和解が一番の盛り上がりとなり、しかも抜群に良い)。

結局、演出の構造からパパゲーノグループはザラストログループの手の上で踊らされている感が強過ぎるのが、音楽にも反映されているとしか思えない。あと、このパパゲーノは笛(タミーノと違って自分で吹いている)と歌の間合いの取り方のせいか、最後の音が最後まで持ち上がらないのが、歯切れの悪さを助長している。

夜の女王は最初のほうは微妙だが、最後のザラストロトロトロの歌は堪能した。

あと3人の童子がとても良かった。この3人は一体なんなのだろう? あくまでも中立な立場で人に優しくする役回りなのだが、生まれてこなかった子供たちなのかなぁ。


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