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日々の破片

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2013-02-18

_ モーツァルトまたはミュージカルの楽しみ

ロックオペラ・モーツァルト(原題っぽく書くとロペラロックモザール)を観にシアターオーブ。

初めての劇場だが、3階造りで各階は急勾配、したがって3階どん詰まりの席だが見易さは抜群だった。高さはもしかすると新国立劇場の4階くらいに相当するかも知れない。というわけで、本当のオペラにも合いそうな感じがする。席は最初、前とやたらと詰まっている感じがしたが座面に奥行があるせいか、観劇中は問題なく、なんかいろいろうまく作ってあって、実に良い感じだ(東急グループとしては、オーキッドや複数の映画館などで経験を積みまくっているだけに手慣れたものかも知れない)。

ものは、以前、かずひこさんのフランス土産でCDを貰って、えらく気に入って結局DVDまで買ってしまっただけに(これが機縁でamazon.frからは結構いろいろ購入することになった)、良く知っている内容だが、日本版を製作するにあたっていろいろ工夫がしてあって感心した。

Mozart L'opera Rock L'integrale(Mozart L'Opera Rock L'Integrale)

その一方で、ある種のミュージカル特有の薄っぺらさがあって、あー、たださんが以前レミゼラブルの映画評で書いていたことはこれのことかと思い当った。

ミュージカルの歴史はオペラにさかのぼれるし、直接の源流はオペラでも2種類あると僕は考える。

1つはハリウッドミュージカルで、これはイタリアオペラに源流を見る。

具体的には、劇の構成がレチタティーボ(語り。台詞とレチタティーボは異なるが、ここでは同一視する)とアリア(歌)で構成される。

良くお笑いのネタになるのが、これだ。普通の映画のように淡々と会話(まあ、粋な会話だったりはするわけだが)が進み、突如音楽が流れるとすくっと立ち上がり歌い出し踊り出す。

これこそミュージカル! というやつで大好きだ。スタンリードーネンやヴィンセントミネリが代表となる。

が、これは60年代にすたれた。

すたれた理由は誰でもわかるが、テレビによって映像表現が一般化することで、コンテキストが読めない人が大量に視聴者となり、そうなるとミュージカル(およびその源流のオペラ)の構成はばかげた茶番以外の何ものにも見えないからだ。

ザッツ・エンタテインメント [DVD](フレッド・アステア)

(これこそミュージカルの代表作からダンスと歌だけ抜き出すと誰でも楽しめる映画になるのだが、それぞれの作品そのものを映画館で観ると退屈で寝る人続出するだろうと思う。がパリのアメリカ人とか好きだなぁ)

僕の妻は、シェルブールの雨傘を知らずに観に行ったら、突然歌い出すので思わず笑い出しただか腰が抜けただかと言っていたが、まあ、そうだろうなぁと思う。

というように、60年代にすたれたにも関わらず、世界中で(インドを除く)ただ一人、ジャックドゥミーだけはこのタイプのミュージカルを撮り続けた。素晴らしい作家だが、たった一人でしかも寡作でしかもヌーベルバーグの文脈(妙な映画を撮る連中というレッテルである)があるせいで、誰からも愛された(もちろん僕も愛している)のは良いことだった。これらの前提のどれか1つでも欠けたらジャックドゥミーはジャックドゥミーの映画を撮ることはできなかっただろう。

ロシュフォールの恋人たち デジタルリマスター版(2枚組) [DVD](カトリーヌ・ドヌーヴ)

(おれにとっての生涯のベスト中のベストの映画だ。ただしときどき一人で生きる(カネフスキー)や僕の小さな恋人(ユスターシュ)にぶれることがあるが、それでもやはりどれか一本と言ったらロシュフォールの恋人だな)

ただし、60年代にすたれたとは言え、こちらのミュージカルには圧倒的に強力な説得力がある。つまり、普通の会話(劇)によって物語を固く構築できることだ。逆にそれが歌や踊りとの極端な落差になるために、コンテキストを読めないと失笑ものになるということだ。

それに対して、ヴァグナー風(楽劇風、つまり無限旋律により、アリアとレチタティーボの区別を廃したもの)が70年代以降にやってきた。

誰が嚆矢かは知らないが、オペラのとってつけた感をヴァグナーが嫌って楽劇を創始したように、歌と劇の落差を埋めるために劇の進行は場面転換に任せてほぼ全編を歌と踊りにしたものだ。

一番極端な例はロイドウェーバーのCATSだと考える。

これは元がTSエリオットの詩集だから、台詞がなくてもまったく問題なく、歌の詩と情景によって舞台芸術として完結できる。

キャッツ [DVD](“サー”ジョン・ミルズ)

ロイドウェーバーの作品はそれ以外でも(映画にもなった)オペラ座の怪人やジーザスクライストスーパースターでも、劇はほとんどなく、ほぼ全編が歌と踊りで、創作能力に圧倒されるが、それだけではなく構成のうまさに舌を巻く。

というのは、これらはすべて物語のコンテキストが広く共有されているからだ。つまり、物語を進行させるための劇(レチタティーボ)が不要であり、そのために、感情描写に過ぎない歌詞を歌わせて、それをつなげていくだけで作品が構成できる。

ヴァグナーが神話を素材にしたのと機を1つにすると考えられる。

(エビータはどうなのかな? 観ていないからわからない)

あるいはコーラスラインを考えてみる。これも劇の進行はレチタティーボではなく歌と踊りによって進められる。オーディション風景なのだから説明は不要なのだ(そういう物語を不在化可能な設定を用意したところが作者の勝利だ)。

特にこのタイプの作品で好きなのはレントだ。説明らしい説明はほとんど語られず、ほとんど歌(しかも物語の説明ではなく、その時点での感情描写)によってきちんと1年間の人生模様を描く。イタリアオペラの伝統を継ぎながらヴァグナー以降の舞台芸術をきちんと完成させたプッチーニのラボエームの20世紀版焼き直しというだけではなく、ミュージカルとしても巧みに構成されているからだ。

レント(1枚組) [DVD](ロザリオ・ドーソン)

(後者のタイプは舞台と映画をほぼ同じように構成できるというのも特徴となる。また、前者以上に楽曲を作る必要があるため、作者の作曲能力が非常に重要となる。おそらくバーンスタインのウェストサイドストーリー1本の中にトゥナイトのような曲を10曲入れることは無理だったように思える。したがって前者の古きミュージカルの掉尾を飾っているのだ(が、変則だと思うし、それほど好きでもない)。プッチーニやロイドウェーバーのようにメロディーがだばだば流れ出すタイプの作曲が必要な所以だ。

さて、では、物語のコンテキストを知らない人が前者のミュージカルと後者のミュージカルを観たらどうなるだろうか?

前者のミュージカルは何だこれは! とびっくりするかも知れないし、笑い出すかも知れないが、しかし物語は楽しめるはずだ。乗れるかどうかはわからないが置いてきぼりになることはない。

しかし、後者のミュージカルはさっぱりなんだかわからない(物語という集中させるための縦糸がその人にとっては存在しないわけなので)から、退屈することになる。あるいはそこでまじめに観れば語られる内容の無内容さに辟易することになる(なぜなら語られないからだ)。

で、モーツァルトだ。

これは完全に後者のタイプで、プログラムを読んで知ったが原作者たちは、それまでにも太陽王だのをヒットさせたらしい。タイトルを眺める限り、フランスでは物語のコンテキストが共有できているはずのものだ。

(レミゼラブルも元はフランスのミュージカルだし、当然、ジャックドゥミーではない(書いていて思い出したが、それでもドゥミーの最後の作品はオルフェ(という神話に基づく物語)だった。しかもこれはミュージカルではない。なんという奇妙な作家だったことか)のだから、時期的にも方法論は後者となるだろうし、少なくともミュージカルに足を運ぶ人間ならある程度物語は知っている前提が成立すると思うが、日本にはそういう作品ってないなぁと気付く。昭和30年代までなら次郎物語とかしろばんばあたりがそういう作品だったのじゃないかと思うけど、それを除くと杜子春とか蜘蛛の糸とか、短編になりそうだ。坊ちゃんですら怪しいなぁ)

しろばんば (新潮文庫)(井上 靖)

(ある時期の日本人がコンテキストを共有できていたはずの作品だけど、おれですら外れているから(海外作品ばかり読んでたからだ)、今やほとんどの人は知らないのではなかろうか。でもこれがおそらくスタンダードのはずだ)というか、Kindle版なんだから読んでみようかな。

と、いつの間にか日本でミュージカルを成立させるのは実に困難だろうということ(前者は失笑もの、後者は共有されるコンテキストが無い)について書いているが、それでもミュージカルは魅力があるので、共有されるコンテキスト(つまり前者に時計の針を戻すことはできないので、どうやっても後者のミュージカルしか成立しないので共有可能な物語を探すことになり、愛と誠だの銀河英雄伝だのが出てくることになる。またはピータパンとかになってしまう。三島ですら作者の名前ではなく作品の物語として読んだ人がどれだけいてしかもその人がミュージカルを観るかを考えると全然だめだろう)を探して苦労しているのがわかっておもしろい。

というわけでモーツァルトだが、ミロスフォアマンの映画の封切り直後ならともかく、全然観に来ている人に物語が共有できているわけがない。ぱっと観た感じ、満席の観客の70%が10代から20代前半の女性、10%くらいおっさんやカップルの連れの男性、20%が中年以降の女性という感じの客層だ。(この満席っぷりにはちょっと驚いた。カーテンコールで、昨日はシアターオーブの観客動員記録を塗り替えたとか言っていたが、良く入ったものだ)

そこで、原作には無い、各場景の間にサリエリの亡霊を呼び出して、モーツァルトがその情景で何をしているのかを説明させるという大技を繰り出す演出となったのだろう。これがあるせいで実に明確になった反面、各場毎に人が変わって歌を歌う単なる演芸会みたいな雰囲気にもなってしまって、それが実に薄っぺらい感じになってしまったのだった。難しいもんだなぁ。(もっとも、原作のほうのDVDを観ても、後者のタイプのミュージカルの宿命なのだが、その場その場の感情描写しかないから、深みのある人間洞察などあるはずがない。きれいな曲を良い役者(歌手)がくそまじめに歌うことで観客の心を揺り動かすことしかできないから、思考のレベルでは常に浅はかな印象を受けるのはどうにもしょうがない)

・歌手の声ではお姉さんの人が気に入った。コンスタンツェの人と合わせてLes solos sous les drapsにはしびれた。

・親父(高橋ジョージ)は役得。というだけでなく、J'accuse mon pereは迫力満点でうまかった。いい歌手だなぁ。

・コンスタンツェの歌手は無茶な変拍子のSi je defailleをちょっと破綻している感じもあったがなんかまじめに歌っていてすごいなぁと思った。

・疲れたのかも知れないけど、サリエリの人(中川晃教)は今一つ冴えない感じだった。(ライブ感を出そうとして時々失敗しているのかなという気もした)

・モザール役の人(山本耕史)はいいなぁ。tatoue moiもPlace je Passeも実に良い曲だし、リズミカルに動いて歌ってうまいものだ。(声質がミケランジェロルコントに似ているのは歌のせいなのか、そういう歌わせ方なのか、そういう人を選んだのかわからないけど不思議だ)

・ローゼンベルクはパパパのところで鶏歩きをしなくて残念だ。

・ダポンテが原作よりも良い男だし、原作だと単にぷいっとローゼンベルクたちのところから立ち去るのに、きちんとモーツァルトを弁護したりして重要度を上げていておやっと思った。

・ジェレマイヤーの存在感の無さはなんなのか。

・カーテンコールで漫談するのはそういうお約束なんだろうか? おもしろかったが(出てきても何もできないし、拍手されていると帰れないから帰れというのは至言だ)なんか新鮮だ

-というか、子供の頃はいざ知らず、劇団四季は別として、小劇場以外の日本のミュージカルを観るのはこれが初めてだったが、良いものだな。


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